−もう一つの未来−

『……約束です』

約束をしたんだ。
何の保障もない不確かな約束を。

たった一つ。
強い想いだけを預けて。


* * * * *


暗い街中で、一人の男が女を待っていた。

たった一人、
未来の約束を交わした女を。

女というのは以前は妙な翼を背に付けた天使。
次に出会う時、その翼はないはずだった。

だが、男の元にやって来た女の背には翼が付いたまま。
純白の翼が夜の街の僅かな明かりを受けて輝いている。

まるで、男にその存在をしらしめるように。

天使は、天使のまま。
人間にはなれないと言う。

『お、おい……どういうことなんだ? 天界に戻るっていうのか!? ちょっと待てよ。約束しただろ!?』

男が女の肩を掴んでそう告げても、女は俯くばかり。

『そばに居てくれるって思ってたのにいなくなっちまうっていうのか? もうどうしようもないのか?』

男の声に女は顔を俯かせたまま、地面に黒い染みを作り始める。

『そうか……いくらあがいたところで無駄なんだろうがな、でも言うぜ……。俺はお前にここに残って欲しかった! 今度は、お前を守るんだって思ってたのによ……』

男が声を荒げて告げても、女は一向に顔を上げず、地面の染みが増えてゆくばかりだった。

『行っちまうんだな……天使なんだから、仕方ないんだな……。わかったよ……行けよ! 行っちまえよ! じゃな!』

俯いたままの女の肩を男は突き放すように押す。

そして、
男はすぐにその場から逃げるように立ち去った。


「……グリフィン!!」


背後から女の声が聞こえたが、男は振り返らなかった。
振り返った所で、女は男の元に戻りはしない。

それきりだ。


男の名前は…… グリフィン。


ん……?
それは、俺か?


じゃあ、女は……あいつ?


あいつは……。
天界に帰ったのか……?



「グリフィン」
「んあ?」

「もう朝ですよ。朝食出来てますけど?」
「あ、ああ……」

あいつに声を掛けられてベッドでうつ伏せの状態で寝ていた俺は目を開いた。俺の顔を覗きこむようにあいつが両頬に手を当て、ベッドに肘を着き、膝を床に着け跪いていた。

「ウィニエル、お前……」

俺はあいつの片方の腕を掴んで引こうとしたが、

「どうしたんですか? 何か嫌な夢でも?」

あいつが首を傾げて柔らかく微笑むから手を止めた。


「……いや? キスしたい」
「えっ!? う、わっ!?」

それからあいつの腕を引いて、ウィニエルの身体を反転させ、俺の上になると肩を引き寄せて唇を重ねた。

「んん」

ウィニエルは嫌がったりせずに大人しくその行為を受け入れる。
あいつの飴色の髪が俺の鎖骨に触れ、俺はそれをこそばゆく感じながら、あいつの唇を舌で強引にこじ開け口腔内を貪る。

「うむぅ…ううっ…… ちょ、く、苦しいっ……」

あいつは息苦しそうに僅かな隙をついて呼吸していたが、嫌がる気配はなかった。

朝、俺を起こしに来る時、あいつは朝食を作ってから来る為か、ほぼ毎回真っ白な大きなフリルの付いたエプロンを着けている。
リディアから貰ったとかで、可愛いし、似合うんだが、暑い季節は薄着の上に着用するもんだから、エプロンしか着けていないように見えて、時々妙な気分になる。

今の季節は春だからそんな気分にはならなかったが、俺はしばらくあいつを放してやらなかった。

あいつも頬を赤らめて、俺の行為を素直に受け入れている。
意外と、好きなのかも。

なんて。


「……ぷはぁ〜……はぁー…息止まるかと思っちゃいました」

あいつが俺の腹の上に跨ったまま顔を赤らめて、口元に右手を当てながら恥ずかしそうに微笑む。

「ぷはぁ〜って……ビールでも飲んだみたいな言い方すんなよなー」
俺は見上げながら右手であいつの左手を取って、指を絡め手を繋ぐ。

「あは、ごめんなさい。だって、グリフィンてば突然だから」
ウィニエルは右手を口元から放して、その手を俺の胸に着ける。
掌が俺の胸に触れ、そこから熱が伝わって来る。あいつの手は温かくて、冷えた胸がじわりと心地良い熱を感じた。

「…………」
「ん? 何だ?」

「……本当は、嫌な夢、見てたのでしょう?」

あいつは黙り込んで俺を見つめた後、哀しそうに笑う。

「別に、何も…… えっ!?」

お、おい!?

と俺が慌てふためくのも構わず、あいつは俺と手を繋いだまま、右手もそのままに、器用に身体をずらして俺の胸元、心臓辺りに顔を近づける。


「……うそつき」


胸元に置いた右手越しに解き放たれた短い言葉。
それを告げた後、あいつは顔を上げて目を細め、俺を冷ややかに見つめる。

その眼といったら、怪しいのなんのって。
唇はさっきのキスで唾液が一部はみ出したまま、潤ってる。

それに触れたのはたった少量。
親指と人差し指の間から僅かに零れたあいつの熱い息が、瞬時に俺の全身を駆け巡った。

ごくり。

と、
生唾が喉を鳴らした。


誘ってんじゃねぇよな?


「う、ウィニ……」
「…………」
俺があいつの名前を呼ぼうとした途端、ウィニエルは突然頬を膨らまし、俺を軽く睨んだ。

それから、

「ほらっ! 起きて下さい!! ごはん冷めちゃいますから!」

ぺちぺちと、あいつの右手が俺の左頬を叩いた。

「あ、ああ……」

俺はまた、てっきり誘っているのかと思ったが、どうやら違ったらしい。

俺の淡い期待はもろくも崩れ去った……。


「タオル、用意してありますから、ちゃんと顔洗って下さいね」


いつの間にかあいつは俺の上から退いて、部屋から出て行こうとしていた。ドアを開けて出ようとした際、ちらっとだけ、振り返って俺を見たが、何故か口を尖らせて、不満気な顔をしている。

何か怒っているようだ。
何でだ?


”うそつき”


さっきの言葉がふと脳裏に浮かぶ。

うそつき……?

俺は嘘を吐いた覚えなどない。
夢の話などしたってしょうがない。

ここは現実。
あいつは俺の元に存在しているのだから、それでいい。
あいつに余計な心配を掛けたくもない。


どうしてあんな夢を見たんだか。


そう思うと、あいつはどうして地上に残ったのだろうと疑問が浮かぶ。
俺が残ってくれと言ったから。

……それはわかってる。


ただ、あれから半年経ったけど、俺とあいつの関係はあまり進展していない。
一緒に暮らしてはいるが、夫婦ってわけでもないし。

仲はすこぶる良好だけどな。


ウィニエルの翼は無くなったけど、あいつは俺にとってはいつまでも天使なんだ。


天使。


夢で見たあいつは泣いていた。
天界で役目があるから地上には残れないと、俺の目を決して見ようとはせずにただ、俯いて。
堪らなくなって、夢の中の俺はその場から逃げ出したけど、背後から俺を引きとめようとするあいつの声がまだ耳に残ってる。
夢の中の出来事なのにはっきりとまだ。

天界に還ろうとする夢の中のあいつは俺が嫌いだったわけじゃない。
一度は俺を受け入れたのだから。

けれど天使仲間に引き止められたのかもしれない。
自分の立場を捨てることが出来なかったんだろう。
現実のあいつは地上に残ったことを後悔してないんだろうか。

あいつは、
翼も、天使の能力も全て天界に置いて来たと言ってた。

俺の我侭で地上に縛り付けた、俺だけの天使。
俺は後悔してない。


なら、ウィニエル、お前はどうなんだ?
何で、あんな夢を見せた?


「グリフィン! 早く起きてって言ってるでしょー!」

刹那、ドアが勢いよく開いて、ウィニエルが俺を睨み付けた。

「お、おう……」
「今日は、約束の日なんですからねっ」

俺の様子などお構いなしに言いたいことだけ言って、あいつはドアを開けっ放しにしたまま走り去って行った。
人の気も知らないで、大声出しやがって。

しかし、何であんなに怒ってるんだろうか。

あいつって、いつもは温和なんだけど、どっかでスイッチが入ると急に怒り出すんだよな。
そのスイッチがわかりづらいのなんのって。

怒った顔も可愛いから、つい暫く放っておきたくなるんだけど。
あんまり放っておくと泣くからな……。

「約束か……」

呟いてみたが、何の約束だったか思い出せない。


何か約束してたっけ?


「グ〜リ〜フィ〜ン!!」
「ああ! 今行く!」

あいつの声が再び聞こえて、俺は条件反射のように返事をした。
とりあえず、飯にするか。


* * * * *


食卓に着いた俺に、いつ直ったのか、あいつは機嫌よくトーストを焼いてバターを塗ると、俺に渡してくれた。
俺はあいつの作った朝食を平らげる。あいつはそれを静かに見ていた。
いつにも増して言葉数が少ないような気もするが、目が合うと微笑むから、さっきまでの怒りはもう消えたらしい。

何で怒っていたのかこれじゃわからん。

……まぁ、いいか。

意外や意外、あいつ料理が結構出来るんだ。苦手なメニューも中にはあるらしいが、普通に食えるし、普通に美味い。

というか、俺はあいつの料理なら美味かろうが不味かろうが、関係なく全部食うけどな。


*


「それじゃ、行きましょうか」

食事を終え、手際良く片付けを終えると、あいつがエプロンを脱いで食卓の椅子に掛けながらそう告げた。

「は? どこに? 俺、今日はゆっくり寝てようかと思ったんだけど」
「……約束したのに忘れちゃったんですか……」

俺の言葉にあいつはしゅんとして、俯く。

「……何だっけ?」
俺は思い出せず、あいつに訊ねることにした。

けれど返って来た言葉は、

「……もう、いいです。私、一人で行って来ますから」
ウィニエルは静かにそう告げると、部屋から出て自分の部屋へ行こうとする。

あいつの顔は一見しただけじゃわかり辛いが、怒っていた。
酷く落ち着いたような静かな物言いの中には、所々角が立っている。

あいつが怒っている証拠だ。

俺じゃなきゃきっと、気付きもしないだろう。
長い間一緒に居た俺にしかわからない。あいつの静かな怒り。

そういえば食事の時、いつもより言葉少なだったな。

「何怒ってんだよ?」俺があいつを引き止めて聞くと、「怒ってませんよ」と即答された。
「怒ってんじゃねーか」って言ってみれば、「怒ってません」とやはり即返される。

「あんまり怒るとハゲるぞ」「禿げません」
「じゃあ、角が生える」「生えるわけないでしょ」

ウィニエルの奴、食事の時と打って変わってよく喋る。っつか、喋るというより俺に突っ掛かってくる。
こんなにぽんぽんと言葉を返してくる奴だったろうかと思う程だ。
いっつも俺の話を聞くばかりであんま喋らないはずなのに、口喧嘩で俺の方が言い負かされそうとはどういうこった。
しかも、あいつの言い方は俺と正反対に冷静で感情が篭ってない。中々に腹の立つ言い方をしてくれる。

お前が怒ってるのは、わかってんだよ!

「この……頑固者!」
「うそつきには言われたくないです」


「何だよそれっ!! 俺は嘘なんか吐いてねぇよ!!」
「……約束破りですし」

「約束、約束って、さっきから何なんだよ!! 約束なんかしてねぇだろ!?」

あいつが俺を冷ややかに見つめるから、俺はついには怒鳴ってしまった。
抑えてたのにな。

「…………。 ……そうですね、してなかったかも」

あいつは少し間を置いてやはり冷静に返す。


「なら嘘吐きはお前だろ! 俺は嘘吐きは嫌いだ!! どこに行くんだか知らねぇけど、さっさと行けよ! どこにでも行っちまえ!」

そう言い終えて直ぐ、俺ははっとして手で口を覆った。

「…………。 ……そうですね、私なんか居ても……」

あいつは無表情で俺と目を合わせると、そう小さく呟いた。

「あ、おい……今のは冗……」
「…………」

あいつは俺の前を通って自分の部屋へは向かわず、玄関に向かった。俺は引きとめようと手を伸ばしたが、どうにも憚られてあいつには触れられなかった。


「……行って来ます……」


あいつは俺が見ている中、静かにドアを開けて外へ出て行ってしまった。
落ち込んでいたのか、首が少し項垂れていた。


「……ま、まぁ、頭冷やしたら帰ってくるだろ」


俺は少し心配しながらも閉じられた玄関のドアを見てから、自分の部屋へと戻った。
自分の部屋に戻ると、俺は再びベッドに横になって、天井を見上げる。

静まり返った部屋。
俺より年上のあいつは落ち着いているから、居ても静かだけど、俺を呼ぶ声だけはよく耳にしていた。

あいつが居ない家って、こんなに広いんだ。

しみじみと感じる。

リディアも一緒に住まないかって誘ったけど、断られた。
ウィニエルだって、大賛成だったのに。

やっと再会出来た兄妹なんだから、気を遣わなくてもいいのによ。

”あてられたくないから”とか言ってたっけ。
何をあてるんだか。


「……約束って何だよ……っああっ、もうっ!!」


俺は慌てて起き上がり、部屋から飛び出した。
あいつの部屋を横切り、食卓のあるダイニングを通って玄関へ。

俺がドアノブに手を掛けると、軽々とドアが開いて、合い間から白い手が見える。

あいつが、戻ってきた。
そう思った。

「ウィニエルっ!!」

俺はあいつの手を引いた。

けど、

「お、お兄ちゃん?」

俺の引いた手は別の女だった。
俺は直ぐに手を放したが、咄嗟のことに女は目を丸くしている。

「なんだリディアか…… なぁ、ウィニエル見なかったか?」

目の前に居たのは妹のリディアだった。
リディアは「さぁ?」と首を横に傾ける。その後、「なんだって何よ……」と続いた。

「天使様がどうかしたの?」

リディアはあいつのことを未だに天使様と呼ぶ。あいつは名前を呼び捨てにしていいと言うのに、旅してた頃からずっとそう呼んでいたから今更直らないらしい。
だからあいつもリディアのことをティアと呼ぶ。二人の間ではそう呼んだ方がしっくり来るらしい。

「……いや、別に?」
「そう? なーんだ。天使様に用があって来たんだけど、居ないなら出直そうかな」

「あ、ああそうしてくれ」

時々俺が羨ましくなる程、リディアとあいつは仲が良かった。俺とリディアが兄妹だってこともわからず、気付かない頃からあいつはリディアに親身になってくれていたらしい。

そして、今でも俺が留守の時にはリディアが訪ねて来て、あいつの傍に居てくれる。それは有難いが、俺が居る時に訪ねて来ると、俺のことなど無視してあいつを外へと連れ出す。大抵は買い物らしいが、いつも帰ってくると二人で楽しそうに話をしている。俺は一人で留守番ってわけだ。

面白くないだろう?

「ねぇ、お兄ちゃん。天使様にはまだ教えてないんだけど、この間この先の廃屋で山賊が出たって話聞いた?」
「ん?」
リディアが唐突にそんなことを言い出した。

「この先の森を抜けて丘を登った所。この辺て、そんなに裕福な人居ないのに、その山賊達は五人で組んで行動しててね。お金持ちの人でも貧しい人でも見境無く襲うんですって」

「ふーん……むかつく野郎だな」

義賊のベイオウルフとは正反対ってわけだ。
そもそも俺達は盗みを働くだけで、人間を襲ったりはしないがな。

「でしょ!? 以前は他の場所で活動してたらしいけど、つい最近、廃屋に近づいた商人さんが襲われたんだって。何とか助かったはいいけど、危うく命も取られるところだったそうよ。一緒に女の人もいたんだけど、その人なんか乱暴な目に遭ったって……」
リディアは最後の言葉を言い終えると腹を立てているのか、唇を噛み締めた。

「卑怯な奴等だな、許せねぇ」

俺は拳を握りしめていた。

「でしょ!! お兄ちゃん退治してあげたら?」
「は? 何で俺が?」

リディアの提案に俺は面食らった。

俺はもう勇者じゃないんだ。
胸くそ悪い堕天使の奴は倒したが、それを成し遂げれたのはあいつのお陰で。
それを終えれば勇者の役目は終わりだ。
俺は今まで通り、ベイオウルフの頭目へと戻る。
金持ちから金品をくすねて貧しい奴等に配ってやる。

それだけで充分だろ?

あいつだって、以前のように俺にああしろこうしろって言わないし、
そんなもんは自警団がどうにかすりゃいいことだろ。

「だって、お兄ちゃん強いし! 義賊でしょ!?」

「お前、義賊を履き違えてないか? 俺は盗賊なんだぜ? 大体この辺は俺達の島じゃねーし、山賊狩りは範疇外だぜ」

仕事をする上での鉄則。
自分の家の近くで仕事はしない。
義賊じゃなくても、ただの盗賊もそうだろう。てめぇの家の近くで窃盗なんか出来るか。

「山賊だって、いっぱい人を襲ってるんだからお金持ちなんじゃないのー?」
リディアは最もらしいことを告げた。

「……まぁ、そうだけどよ」

あいつが天使の時は、誰かがちょっとでも困ってたら助けに行ってやってくれと、俺を世界の端から端まで旅させ、平気で気色悪い猛獣共と戦わせてたが、人間になってからというもの、俺が仕事先や仲間内との喧嘩でちょっとでも怪我をすると酷く心配するようになった。

俺が喧嘩っ早いのは知ってるはずなのに、怪我した俺にあいつは包帯を巻きながら泣きやがる。
怪我なんか舐めときゃ治るのに、大げさなんだよ。
天使の頃もあんまり酷い怪我すると泣きながら回復魔法を掛けてくれたっけ。
それでもあいつは仕事をやめろなんてことは言わない。天使の頃は盗みは良くないとか、やめろだの言ってたのに180度の大転換だ。

俺に理解を示してくれたのだと思う。

けど、
俺の怪我で泣くことだけは変わらない。

あいつが泣くと、俺はどうしていいかわからなくなる。
あいつが痛いわけじゃないのに泣くから。
あいつが泣くとその度に俺の胸が痛くなる。

俺はあいつを泣かせるために地上に残したんじゃない。

あいつの泣き顔を見たくなくて、俺はなるべく怪我をしないように気を遣って来た。

山賊だろ?
命も危なかったってことは、奴等はそれ相応の装備をしている。
俺一人で行って、勝てる自信があったとしても無傷で帰るのは難しいだろ。


「お兄ちゃんらしくないね。本当は天使様が言ったらすぐ解決してくれるんじゃないの?」
「あいつは言わねーよ。 ……多分」

多分。

いや、あいつがその話を聞いていたら俺に言ったかもしれない。
天使の名残か、本質か、あいつは誰にでも優しいから、誰をの痛みも汲み取ろうとする。
もう俺だけの天使だから、そんなことをする必要はないのに。

けど、俺の性格を知ってるあいつは俺が行くことを了承するだろうか?

そして、怪我をした俺を見て、泣くんだろう?
死ぬわけでもないだろ、って言っても大げさに泣くだろう?

俺は、世界の天使じゃなくなった、俺だけの天使を泣かせたくはない。

「……まぁ、お兄ちゃんにはお兄ちゃんの事情があるもんね。自警団がどうにかしてくれるよね」
「あ、ああ、悪いな。力になれなくてよ」

「ううん、いいの。私も街でちょっと聞いただけだから」と、リディアは笑顔で首を横に振った。どうしても俺に解決させたいわけではないらしい。

「ねぇ、お兄ちゃん。天使様どこに行ってるの?」
「え? あ、散歩だな、散歩」

急に話題があいつに戻って俺は咄嗟に嘘を吐いた。
あいつ、どこに行ったんだ?

「ふーん…… こないだ、野原に行った時花冠の作り方教えたんだけど」
「ふーん……」

「昨日まで雨だったでしょ? 今日晴れたから、一緒に作りに行こうかと思って誘いに来たの」
「ふーん……」

あまり興味のない話だった。
花冠なんか作って何が面白いんだ?

その上で寝転がってる方がよっぽどいい。

そんなことより、あいつを探しに行かないと。

「そういえば、廃屋の辺りに白詰草が群生してたっけ……」


「え?」


「……あの辺、なだらかな斜面になってて、一面白詰草が生えててね。風がすごく気持ちいいの」

「……おい、リディア……?」
俺はリディアの言葉に嫌な予感を覚える。

「……一度だけ、連れて行ったことがあるの。天使様、すごく気に入ってくれてね。あ、でもまだ山賊が出る前よ? それに、今日誘おうと思ったのは別の場所で……」


「悪ぃ、留守頼むわ」


喋り続ける妹の言葉を俺が最後まで聞く事はなかった。
了承するリディアの返事が俺の耳に届く前に俺は走り出していた。

『山賊が出るのは夕方以降だって言うから! 天使様、大丈夫だから!! すぐ、見つかるから!!』

既に廃屋へと向かって走り出した俺の背に、リディアの励ましの声が小さく聞こえた。


ウィニエル。
お前、廃屋になんか行ってないよな?

まだ昼間だから、大丈夫だとは思うけど…… 無事で居てくれよ。


俺が直ぐにお前を追いかけなかったから。


その所為で山賊に襲われるなんておかしいだろ。
そんな不条理はねぇよな。


そう言い聞かせて、俺は廃屋へと急いだ。


* * * * *


「ウィニエルー!!」


家から出て、15分程走って森を抜けると小高い丘へと出る。緑の絨毯の丘の頂上に臙脂色の屋根の、所々穴の空いた白く塗られた木の壁、木造の小さな家が目に入った。俺が来た方は裏手だったのか、玄関は見当たらず、日の光は表を照らしている為に、裏手側に生えた緑は光が当たっている部分より濃い色をしている。
ここからあいつの姿は確認できなかった。

表側に居るんだろうか?

昼間は山賊が出ないと言ってたとはいえ、中に居ないとも限らない。
なら気付かれないようにしなければ。

そう思って、
俺は静かに廃屋へと近づいて、ペンキの剥がれが酷い、汚れたガラス窓の一部を指で擦って覗いた。

「……ゴミだらけじゃねぇか」

中には草臥れた二人掛けのソファが一つあるだけで、他に家具らしい家具はなく、一部屋続きで、二階も梯子で繋がっており、誰か居たら一目でわかるような間取りだった。

今は誰も居ないようだ。
変わりに無数の酒ビンと何やら食い散らかした食物の残骸があちこちに散らばっている。中に入ろうものなら異臭がしそうだ。

こんな場所にあいつが入ることはないな。

山賊が居ないことを確認した俺は、廃屋の表へと回ることにした。


「ウィニエル」


俺の声は小さかった。

あいつは廃屋の玄関側から少し下った、一面白詰草の群生で埋め尽くされた中に立っていた。まだ春半ばだからか殆どが緑で、白色の球状の花は少ないが、あいつの足元近くにいくつか咲いている。その白と緑のコントラストがこれからやってくる初夏を匂わせた。
あいつは俺に背を向け、温かい陽射しに向かって空を仰ぐように、手にその花を数本持って、髪を風に靡かせている。
俺の声に気付く様子は見受けられない。

俺はその姿、眼差しが、天界を乞いているように見えて、どこか淋しそうだと感じた。


そして、あいつに近づきながら、ふと、夢のことを思い出す。


夢の中のあいつは、俺じゃなく天界を選んだ。
現実のあいつは、俺を選び翼を置いてきた。


……後悔はしてないのか?


どこにでも行っちまえなんて、売り言葉に買い言葉でつい言ってしまったけど、
まさか、今更天界に帰るなんて言わないよな?

「あ、グリフィン。どうしてここが?」
ウィニエルは俺が近づく気配を感じたのか、声を掛けようとした俺に振り向いた。

しかも、何故か機嫌が直ってい、る……?

「……良かった。無事で」
俺はあいつの肩を掴んで、静かに地面に座らせ、俺も一緒に腰を下ろす。白と緑の絨毯は柔らかく温かかった。

「何かあったんですか?」
向かい合った俺にあいつは花を手に持ったまま首を傾げる。

「……夕方、ここに山賊が出るって噂聞いたか?」
「山賊? いいえ? そうなんですか。それじゃあ、何とかしないとですね」

あいつは変なことを言う。
天使でもないのにまだ、人助けをするつもりか?

「……グリフィン、どうしましょう?」
あいつは俺を覗き込むように訊ねてきた。

「何で俺に聞くんだよ」
「だって……」

あいつが俺を頼りにしてくれてることはわかっている。
けど、俺が怪我するから以前のように簡単に悪党退治を頼むことはない。

「お前、俺が怪我するの嫌なんだろ?」
「嫌ですけど、どなたか困ってらっしゃるんでしょ?」

自分がそれを解決することが当たり前だ、と言わんばかりの口調で、あいつは言葉を返してくる。

「俺に怪我しろって?」
「……そんなこと言ってないじゃないですか。あなたなら怪我しなくても、山賊の一人や二人」

「五人だってよ」

「……で、でも困ってる人が可哀想ですし……グリフィンなら……」

あいつの中で山賊の問題は自分の使命に移行したらしい。
人間になっても、やっぱりあいつは天使のまんまだ。

俺は別にどっちでも良かった。
あいつが望むなら解決してやるさ。
ちょっと怪我したって死にゃあしねぇ。

ただ、もう天使でもないのにでしゃばることはないんじゃないか?
気を揉み過ぎなんじゃないのか?

やっと、人間になれたってのに、
これじゃあ、あいつは人間になりきれねぇじゃねぇか。


それとも、まだ天界へ未練があるのか。


「俺なら解決できるが、怪我しても泣くなよ? お前いっつも泣くから」

俺はあいつの髪を掬ってそれに口付け、ウィニエルの様子を窺う。


「そ、それは……わかりません」
あいつは首を横に振るう。

「何でだよ」
「……だって、涙は勝手に出ちゃうんだもの……」

あいつは申し訳なさそうにしたかと思うと、

「でも、怪我には気を付けて下さいね」
今度は笑顔で悠長に告げた。

「あのなぁ。五人だぜ? さすがの俺でも無傷で帰れるかよ」
「でも、怪我したら嫌です」

「……とりあえず、死ぬこたぁねぇから、安心しとけ」

俺はあいつを安心させたくてそう言ってやったんだけど、

「でも、怪我は嫌。私、もう天使じゃないから助けてあげられませんし」
「んあ?」

「……私が天使だったら、怪我しても直ぐ治すことが出来るのに……今の私じゃ一緒に戦うことも出来ない……」
ウィニエルは歯痒そうに口を窄めた。

どうやら俺の想いはあいつには伝わらなかったらしい。

「……お前、天使のままが良かったって思ってるのか?」
「え?」

何で、そんな言葉が出たのかはわからない。
夢の話から生まれた疑問を何故、今俺はあいつに訊ねようとしているんだよ。

そうは思ってるのに、俺の口は止まらなかった。

「未練があるのか?」
「グリフィン? 一体何のはな……」
あいつが俺の目を見て、息を呑む。

俺の口よ、喉よ。
もうやめてくれ。

俺は、ウィニエルを泣かしたくない。


そう思ってるのに、尚も口が勝手に御託を並べやがる。

「あの時、お前は何で俺を選んだ? 天界へ翼も、能力もみんな置いて来たんだろ? 本当は後悔してんじゃないのか」

「何……それ…… どういうことですか?」
俺の言葉にあいつの眉が少し強張る。


「天界に帰りたいなら帰ればいいだろ!! 天使でいたいなら地上に残んなくたって良かったんだ!」
「グリフィンっ!!」

俺の言葉の終わりとあいつの俺を呼ぶ声が重なって、
その後、俺の左頬に針に刺されたような痛みが走った。
耳には何かが破裂した音が残り、痛みが通った方向へ目を向けるとあいつの手が宙に留まっていた。

地面にはあいつが持っていた花が散らばっている。


……決定打を打ってしまった。


「…………」
俺はそれ以上何も口に出来なくなってしまった。

「…………」
あいつも右手を下ろし、左手でそれを包むようにすると、それきり黙り込んでしまう。

お互いその場に向かいあったまま俯いていた。
時間にしたらそう大したことはない。

だが、こんなに重い沈黙は初めてだった。
今、途方もなく長い時が流れている。

この沈黙は、いつ終わるんだ?

今日は晴れてるし、ここは花畑みたいに穏やかで風も和やかなのに、俺とあいつの険悪さと言ったら。
丘の下を臨めば街を一望出来るし、恋人同士で訪れるのに廃屋の中はともかく、ロケーションは完璧じゃないか。

なのに、俺達のこの空気はなんだ。

俺はこんな沈黙を長く続けるわけにはいかないと思い、あいつに呼びかけてみる。

「……う、ウィニ……」

その呼びかけに、

「……天界に帰れ? 地上に残らなくたって良かった? そうですね……天界に帰ってたら別の世界に派遣されて、別の勇者と出会って、新しい恋をしてたかもしれませんね」

俺の言葉を覆うように、同じタイミングで今度はあいつが口を開いた。
言い終えると、あいつは立ち上がって走り出す。

「待てよ、ウィニエル!!」
俺は直ぐに追いかけ、離れていくあいつの右手首を引いて、引き止めた。

「や……放して下さい!」
あいつは抵抗して俺の手を振り切るように手首を激しく上下に動かす。顔は地面を向いてしまっていて、表情を窺い知ることは出来なかった。

「いやだ!」

俺は抵抗するあいつの腕の自由を奪うように、握る手により一層の力を込めた。

「痛っ……痛いから放して下さい!」
「いやだ。放したらお前、逃げるだろ!?」

掴まれた腕が痛いのかウィニエルの手首に、俺の指が食い込んでいく。


俺は放せなかった。
この手を放したら、きっと、ウィニエルは……。


「……逃げないから、放して下さい。本当に……痛い……」
あいつは俯き、涙交じりの声で首を横に振りながら、観念したのかそれまでの抵抗をやめた。

「……本当だな?」

俺がそう言うと、あいつは何も言わなかったが、俯いたままの状態で首を何度か縦に振って頷いた。
それを見届けた俺はあいつを開放してやる。

そうすると、あいつは言った通りに歩みを止め、その場に留まった。


「……私、あなたの気持ちがわかりません」

俺から開放された手首は鬱血し始めか、赤くくっきりと指の痕が残っていた。
相当痛かったに違いない。
あいつは左手でその部分を擦りながら呟いた。

「は? 俺の気持ち?」

「……私は、天界に還った方がいいんですか?」
ウィニエルは顔を上げないまま口元に両手を当て、言葉を濁すようにそう告げる。

「誰もそんなこと言ってねぇだろ?」
俺は直ぐに反論した。

「だって、嘘吐きは嫌いだって。どこにでも行けって言ったじゃないですか。地上に残らなくたって良かったとも」
あいつも直ぐに返してくる。
まるで朝の言い合いと同じじゃないか。
このままじゃ、また口喧嘩になってしまう。

なんとかしないと。

「だからそれは、たまたま出ただけの言葉で、だな……」
俺は朝とは逆に、熱くならず冷静に返してみた。

「だからって、そんなこと言いますか? いくら怒っていても、少しも思ってもない言葉を咄嗟に出したりなんかしませんよ?」
あいつは口元に当てていた両手を下ろして、いつもと同じように冷静に返してくる。
この状況においてなんで、こんなに冷静で居られるのかわからない。

そして、
やっぱり俺はそれに腹が立ってしまう。

「何だよ、その言い草は!」

ついには、怒鳴ってしまった。

「グリフィンが変なこというからでしょう!?」

あいつは下を向いたまま、怒鳴り声だけあげた。


あれ?


「変って何だよ!? 俺はただ、お前が地上に残って後悔してないかと思ったから!」
「どうして後悔してると思うんですか!?」
俺が返すと、あいつはやっぱり顔を上げないまま大声を張り上げた。

俺は顔を上げないのを不自然に思い、あいつの顔を覗こうとした。だが、あいつの表情はやはり見えなくて、わかったのは両太腿の脇に沿った両手の握り拳だけだった。

その拳が小さく震えている。

「空、見てたじゃねぇか!! 空見て、天界に戻りたそうな顔してただろ!」
俺は俯くあいつの頭に向かって怒鳴りつける。

「誰も、そんな顔してません! あなたの勘違いでしょう!?」
あいつは拳を震わしながら首を激しく横に振るった。
それでも顔は上げちゃくれなかった。


「なら、顔上げろよ! いつまでそうしてんだよ!? 俺の方見ろよ!」
「やっ……!」
俺はあいつの右肩を掴んで、俯いた顔を上げさせるために顎を左手で掴み、力を込めて強引に押し上げた。

どうせ、泣いてるんだ。
そんなのわかってる。

ウィニエルは泣き虫だから。


「……泣き虫」


あいつと俺の目が久しぶりに合った。

でも、

あいつは直ぐ、目を閉じた。
頬が涙で濡れて、閉じた目蓋からはまだ、涙が溢れている。
涙を止めようと閉じたが、閉じたところで涙が止まるわけがない。

「な、泣いてなんか、いな……」

あいつは目を閉じたまま口を開く。

「これ、涙だろ?」
「ち、違う……! 涙なんかじゃ……違うもの! 泣いてなんかいないもの!」

俺が問うと、あいつは薄っすらと目を開けて、口を大きく開けて告げた。
開いた口に唾液が濃くなったのか、透明な糸が見える。

その光景はまるで、子供が親に必死に言い訳してるようだった。

ウィニエルのそんな顔を、俺は今まで見たことが無かった。
こんな風に取り乱すこともあるのかと、新しいあいつをまた一つ発見した気がして、俺の胸は急に締め付けられた。

「……泣いてる」
俺はあいつの顎から手を放して、その手を肩へと添えた。

多分、もう、俯いたりはしないだろう。

「……っく……」

あいつは、
ひくひくと鼻を啜る。

「……ほら」

俺はいつもあいつが俺に持たせているハンカチを腰の道具入れから取り出した。
それであいつの鼻を摘む。

「ううっ……」

ちーんっと、あいつは勢いよく鼻をかんだ。
それを俺は丸める。

その姿が可愛いな、なんて俺は思っていたが、

「ハンカチ……汚しちゃった……っ……」
ウィニエル的には許せなかったのか、丸めたハンカチを俺から取って見つめると、再び涙を溢した。
今は、「ハンカチなんか洗えばいいだろ?」とか、「泣くな」と言っても泣き止みそうにない。

泣かしたのは俺だから、付き合うしかないか。


「……やっと、顔見れたな」

俺はあいつの濡れた頬を両手で包んで、無理矢理笑顔を作って覗き込んだ。

「……ぐりふぃ……ひっく……」

あいつは俺の笑顔にほっとしたのか、また涙を溢す。
その涙はあいつの頬を伝って俺の手を濡らした。

熱い涙だった。


「……俺、夢を見たんだ」
「ゆ、夢……?」

俺の話に耳を傾けた後あいつは鼻水が溜まって声が詰まるのか、ちーんと、再び俺のハンカチで鼻をかんだ。
それでも俺に頬を包まれて遠慮しているのか、上手くかめずにあとは鼻を啜って口で呼吸をする。

「……お前、俺が嘘吐きだって言ったろ?」
「は、ひ……」

俺の言葉にあいつは素直に返事をした。
ウィニエルの声は嗄れて、上手く発声出来ていない。
今はうまく喋れないから、言い返されることも無いだろう。

それにもう、言い返そうとは思っていないかも。

そう考えたら、いつの間にか俺の苛立ちも消え、冷静に喋れるようになっていた。


「お前には別に? って言ったけど、本当は堕天使の奴を倒したすぐ後の夢でさ……」
「……はひ……」

俺が静かに話し出すと、あいつは一度だけ頷いた。

「俺はお前に地上に残って欲しいって言っただろ? で、お前は俺の傍に居てくれるって約束した。約束通りお前は地上に残ってくれた」
「……はぃ」
俺の話にウィニエルは小さく返事をする。

「……夢の中のお前はさ、天界に還るって言うんだ。俺と約束してたことも忘れてよ。いや、約束を忘れたわけじゃないけど、多分、自分の役目を捨てられなかったんだと思う」
「ど、どうし…そ、……夢を?」
ウィニエルは続く俺の話に、今度は眉を曇らせた。

どうしてそんな夢を? って訊いたんだよな。

「わかんねぇ……ただ、その夢を見てよ、お前は後悔してないのかと思って」
「……ど…し、て……? どうして…そう……うの?」

どうしてそう思うの? って?

「……俺はお前を地上に留めたことを後悔してねぇ。お前が傍に居てくれるだけで俺はいいんだから。けど、お前は天界に全部置いて来たんだろ? 翼も、力も、家族も、友達も。もう二度と会えないんだろ? 後悔してないのか?」


「…………」

俺が言い終えると、あいつは黙り込んでしまった。
今沈黙されるのは肯定されてるようでちょっと痛い。

「い、今更後悔してるって言っても、お前を天界に還す気はないからな!」

慌てて言葉を追加した。


「………。 ……私の居場所はグリフィン、あなたです」


しばらくの沈黙の後、あいつはそう告げた。


「ウィニエル……」


俺はこの言葉を待っていたのかもしれない。
さっきの沈黙であいつの咽が潤ったのか、声がやや涙混じりだが、ほぼいつも通りに戻っていた。

「それに……」
「え……それに? な、何だ?」

あいつの言葉が続いたから、俺は慌てた。
何を言うつもりなんだろうか。

「……あなたに捨てられたら、私どこにも行けなくなってしまいます」
「捨てるわけねぇよ」

なんだ、そんなことだったか。
と思ってたら、

「一度人間になった天使はもう、天界には還れないんです。それが天界の掟」

と続いた。

「ん? ……じゃあ、還りたくても還れないってことか?」

それならやっぱり後悔してるんじゃないか。
後悔したって、還してやらねぇぜ?

「……いいえ。私は天界に還りたいなんて思っていませんよ。一度も思ったことがありません」

ん? やっぱり後悔はしてないのか?
一体どっちなんだ。

「だってお前、天使の力があればとか何とかって言ってたじゃねぇか」
「それは……あなたが怪我したのを早く治してあげたいからで、天界に還るために言ったわけじゃないですよ?」

ん? ってことは、全部俺の為?


「……そっか、そうなんだ」


あいつの想いが天界じゃなく、俺にあることがわかって、俺は心底ほっとした。
だとしたら、俺はあいつに相当酷いことを言っていたことになる。

納得した俺に、あいつは更に続けた。

「……天使でなくなった今、あなたが大怪我をしても、何もしてあげられないですし、翼があれば離れていても直ぐにあなたの元に飛んでいけるのに。人間の私はまるで役立たずで何だか悔しくて。気が付いたら涙が溢れてしまってるんです……。それをあなたは辛そうに見ているから、あなたの辛そうな顔を見ていると苦しくてまた涙が溢れて……」

あいつの瞳からまた涙が零れていった。
止め処なく、熱い雫は頬を伝って滴り落ちていく。

「……そんな風に思ってたなんて俺、知らなかった……」
俺はあいつの頬を包んでいた両手を今度は肩に乗せた。

少し、複雑だった。
あの涙は俺を心配しての涙じゃなくて、悔し涙だったなんてよ。

だが同時、少し肩の荷が降りた気もする。

俺にはよくわからないが、これはあいつの性格の問題だ。
ウィニエルの性格を考えれば、かつて出来たことが今出来ず、もどかしくて歯痒くて、悔しいんだろう。
変な所が頑固だから余計凝り固まってるような気もする。

「ごめんなさい……あなたを困らせたいわけでも、泣きたいわけでもないのに……いっつも、心配させてしまって」
ウィニエルの眉尻が下がった。

「いや……俺はてっきり、俺の身体のことを心配して泣いてるのだとばかり」

何だか自惚れもいいところだよな、俺。

「? 勿論それも入ってますよ?」
「え?」

「だって私、あなたが居ないと生きていけないもの。だからいつも元気で居て欲しいんです。怪我なんてして欲しくない」

あいつは俺の目を真っ直ぐに見つめて告げた。


ウィニエルの言葉は、俺に死ぬなと言ってるように聞こえた。


もう自分は天使じゃないから、助けることは出来ない。
重症になんてそうなることはないが、俺の仕事上、先のことなんてわからない。


なら、怪我をしないように気を付けて欲しい、と。


そして、ウィニエルは俺がもし死んだら、

も、もしだぜ?


もしかしたら……。


「……安心しろ。俺はお前を残して死んだりしねぇ」

「……グリフィン……」

俺がそう言ってやると、あいつはやっと微笑んでくれた。


天使が自害するなんて話、聞いたことねぇ。
確かそれって、大罪なんだろ?

まぁ、元天使だから大罪にはならねぇかもしんねぇけど。
俺はずっと、
俺ばっかりがあいつを想ってると思ってたけど、


俺って、実はすげぇ愛されてるんだな……。


「……何、笑ってるんですか?」
ウィニエルは不思議そうに小首を傾げて俺を見る。

「え? あ、いや……」
どうやら俺はにやついていたらしく、あいつに指摘され瞬時に愛想笑いに切り替えた。


お前の愛を感じてたんだ……。


なんて、恥ずかし過ぎて、口が裂けても言えねぇ!!

……臭いしな。


「……ちょっと、しょっぱいかもしれませんけど」
「ん?」

あいつは俺の首に手を回して、背伸びをした。

「ん」

ウィニエルの唇が俺の唇に重なる。涙が少し混ざっているのか、あいつの言った通り、確かに少し塩辛い。


「……グリフィン、大好き」


ほんの数秒足らずで、触れただけの口付けが終わる。
俺から離れたウィニエルの笑顔は、日の光を受けて輝いていた。

ああ、やばい。

かなり、眩しい。
俺、病気かも。
ただの数秒、触れ合っただけなのに、なんてこった。

あいつからキスされるなんて思ってもみなかったから、俺は動けなかった。
今までにキスは何度もしてるが、あいつからされるとどうにも動けなくなる。


「……ねぇ、グリフィン」
「ん?」

あいつは俺の首に手を回したまま訊ねた。
俺もあいつの腰に腕を回して、両手を組む。

やっと、いい雰囲気になってきたんじゃねぇ?

などと思っていた。

「グリフィンは、嘘吐きが嫌いなんですよね?」
「う、ん? だからそれは……」

たまたま流れで出ただけであって。
いや、
確かに嘘吐きは嫌だけどよ。

「……私、嘘吐きですけど……いいんですか?」
ウィニエルが小首を傾げながら笑った。

「え?」

まさか、カミングアウト?
ウィニエルって嘘吐きだったのか。

「……約束なんて本当はしてなかったんです。したと思ってただけで」
「ん?」

「……私も今日夢を見て。グリフィンとここに来ようって約束した夢なんです。私ったら、あんまり幸せな夢を見たから、現実と被っちゃって」
あいつは俺の首から手を外して、気まずそうに五本の指の腹を合わせ人差し指だけ、交互に小さく円を描く。


「は?」


「えと……つい、ぽろっと。あなたは悪くないのに当たったりしてごめんなさい」
俺がぽかんと口を開けると、ウィニエルが苦笑いを浮かべ、謝った。

いや、謝らなくても。
お前の思い込みは今に始まったことじゃねぇし。

けど、

「……お前、夢でも俺と一緒なのか」

「え? はい。 ……め、迷惑でしょうか?」
ウィニエルは上目遣いに俺をみて、訊ねてきた。

あいつの一言一言が、俺の胸を締め付けていく。
握りつぶされる痛みじゃなく、吸われるような痛み。

その痛みは次第に心地よくなって、甘くなり、俺を翻弄する。

「いや、すげぇ嬉しい」
「えっ……あっ」

俺はあいつの肩を抱きしめた。
あいつの顔が俺の胸に埋まる。
あいつの手が俺の背に回る。

なんで、こんなに胸が締め付けられるんだろう。
なんで、こんなに愛おしく感じるんだろう。

愛してるって、こういうことなんだろうか。

ウィニエルもそう思ってる。
この幸福感を言葉に表そうとしたらどういう風に言えばいいのか、俺にはわからないけれど。

守っていこう。

ウィニエルを一生守っていきたい。

あの時も言ったけど、あの時よりも日を重ねるごとにあいつへの想いが強くなっていく。
想いが膨らんでいく。
それはきっと、まだまだ大きくなっていく。

どこまでも、抱えきれないくらいに。


「グリフィン、また一緒に来てくれますか? もうちょっとしたら花が満開になると思うので」
ウィニエルの息が俺の胸元に掛かった。

「ああ。山賊を倒したらな」
「はい……」

俺達二人を春の温かい風が包んで、祝福する。
だが、あいつにはまだ空気が冷た過ぎるのか、俺にしがみついて来た。

その姿がまた、愛しい。


*


「とりあえず、今日はもう帰るか。奴等の動向も探らなきゃだしな」
「はい」

俺とウィニエルは家に帰ることにした。
ここに来た時はお互い一人だったのに、帰りは手を繋いでいる。

丘を登り、廃屋を横切り、反対方向へと下る。
森の中へ足を踏み入れ、土を踏み慣らしただけの、来る時走ってきた細い道を二人で歩く。

「薄暗くて恐いですね」
あいつは繋いでた手を放し、俺の腕にしがみ付いて周りを見ないようにしていた。

確かにこの道は薄暗く、道脇、森の奥に目をやれば昼間だというのに、暗い闇が広がっている。
ウィニエルは人間になってからというもの、闇が苦手になってしまったようだ。

夜の闇は平気らしいが、夕刻や昼間の建物の影、薄暗い空間が嫌らしい。影を警戒して、街の路地には入りたがらない。大体日の当たる場所に居る。
訊ねてみれば、天使だった頃は光に守られていたから恐くなかった、と言う。
でも今はその光がないから警戒しておかないと、と。
「何の警戒だよ」と言えば、「堕天使がまた現れたら大変ですから」なんて言いやがった。

堕天使を倒したばかりだというのに、まだ警戒しているらしい。
確かにあの野郎は消える前に捨てゼリフを吐いていったけど、復活するにしたって俺達が死んだ後の話だろうし、そんな未来のことまでウィニエルが心配することはないと思うんだが。

っつか、人間になってから警戒してるなんつったって、
俺から見たら、ただ恐がってるだけにしか見えないんだけどな。
やせ我慢もいいとこだ。

まぁ、少しずつ俺に弱音を吐くようになって来たし。
俺を頼ってくれてるから、いいか。


「…………」
俺の腕を掴むあいつの腕の力が強まった。
ウィニエルは俯いて俺に方針を預け、歩みだけ進める。
やっぱり、恐いらしい。

俺は平気だが、ウィニエルはよくこんな道を一人で歩いてこれたもんだと関心しちまう。

「よく一人で行けたな」
と訊ねると、
「……本当、自分でも驚いてます。こんなに薄暗い道だったなんて。ティアと一緒の時は気が付かなかったから」
と返してきた。

何でもリディアと来た時は、リディアがずっと喋っていたから周りなんて見てなかったという。道は森に入る入口さえ間違わなければ一本道だから覚える必要もなくて。

多分、リディアも恐かったんだろう。
自分の恐さをウィニエルに悟られ、恐がらせまいとして饒舌になったんだと思う。
ウィニエルも無意識だがリディアの話に夢中になったんだと思う。

俺はリディアじゃないから、ぺらぺら気の利いた話を喋ったり出来ない。
その代わり、あいつの不安を受け止めてはやれる。

「……俺がついてるから大丈夫だって」
俺の腕にしがみ付くあいつに微笑み掛けてやる。

「はい」
ウィニエルは顔を上げて俺に微笑み返した。
それから安心したのか、腕の力が少し緩む。

密着したあいつの温もりが少し離れると、俺は妙に淋しくなった。

……別に、もう少しくっついててもいいのに。 ……残念だ。


……俺はアホか。


「グリフィン?」
「お、おう」

あいつに声を掛けられて、邪な考えが一瞬過ぎった俺は慌てて話の種を探した。
何か話しながら歩いた方が、よりあいつの不安も解消されるだろうし。

「……そういえば、お前、何であんなこと言ったんだよ?」
「え?」

「さっき」

俺が言いだしっぺとはいえ、売り言葉に買い言葉のようにあいつが言った言葉を俺は一言一句違わず覚えていた。
それを、あいつに言ってやる。

「天界に帰ってたら別の世界に派遣されて、別の勇者と出会って、新しい恋をしてたかも……とか言ったろ」

「あ……えっ!? よ、よく覚えてますね……」
ウィニエルが俺の記憶力に驚いたのか、目を丸くして俺を見上げた。

「なぁ、何であんなこと言ったんだよ」

「そ、それは別に、かっとなって、たまたま口から出てしまっただけで……」
俺の問いにあいつは口篭る。

「……いくら怒っていても、少しも思ってもない言葉を咄嗟に出したりなんかしないんだろ?」
「ええっ!? それも覚えてたんですか!?」

俺があいつの言った言葉をそっくりそのまま言ってやると、ウィニエルは信じられないという顔で俺を見た。
少し、訝しい顔つきをしているような気もする。

「なぁ、どうなんだ?」

「そんなこと忘れて下さい……」

あいつは気まずそうに口元に片手を添えた。

しょうがねぇじゃん。
お前の言うことは全部覚えてるんだから。

「なぁ、答えろよ。俺、かなりショック受けたんだぜ?」
俺はあいつの情に訴えるように眉尻を下げ、訊ねた。

こう訊ねたら、優しいあいつはちゃんと答えてくれるって、俺はわかってるんだ。

「……うう……そんな顔しないで下さい…… 本当につい出ちゃっただけなんですよ? 忘れて下さい……」
ウィニエルは俺と同じように眉尻を下げ、困った顔で首を横に数回振るう。

「……納得のいく理由を聞いたら忘れてやってもいい」

多分忘れないけど、そう言ってやった。

「理由? ……うーん……本当に何にも考えてたわけじゃないのに……うーん……」
あいつは俺に寄り添ったまま宙を見上げたり、地面を見たり考えを巡らせていた。

俺は夢のことがあったからつい言ってしまった。
ウィニエルはどんな理由でそう言ったんだ?

「……作ってもいいぜ?」
「え?」

「こじ付けでもいいから、俺を安心させてくれねぇ?」
俺は、少々情けないかもしれないが、無理にでも理由を作って安心させて欲しかった。

夢の中のあいつのように、
もし天界に残ってたら、別の世界へ降り、別の勇者と恋に落ちていた?

そんな話、冗談でも聞きたくない。

俺以外の男?

……想像すらしたくもない。


「グリフィン……」


あいつが頭を俺の肩へと寄せた。
温かい。
ほのかな花の香りが、ウィニエルの髪から香る。

もし、
あいつが天界に還っていたら。
ウィニエルのこの温もりが無かったら、今の俺はどうしてたんだろう。

……考え始めると、

切なくて、同時恐ろしくなる。

あいつと会うまで、こんな風に恐れを抱いたことはなかった。
嫉妬なんか知らなかったし、何でも笑い飛ばせた。

それが俺らしさだったとしたら、あいつはそれを見事に歪めてくれた。

基本的な部分は変わってない。
それは多分、あいつも同じだと思う。

不安。

俺にとっての不安はいつもあいつだ。

あいつが地上に残ってくれた時から、あいつがいつ居なくなるかと毎日不安だった。
さっき、
自分の居場所は俺だと言ってくれたからそれは解消されたが、どうにもその前の言葉が気になる。

それを取り除いて欲しいんだ。

「なぁ、ウィニエル?」
「……じゃ、じゃあ、怒らないで下さいね……?」

「ああ、怒らねぇ」

「えっと……」
ウィニエルは俺の気持ちを察したのか、俺を見上げて話し始めた。

「……例えば、の話です」
「……ああ」

「……もう一つ未来があったら、そうだったかもしれないって」

「もう一つの未来?」

あいつは妙なことを言う。
もう一つの未来ってなんだ?

「はい……今の私はあなたの元に居ますよ? でももし、別の私がいて、別のあなたがいて、もう一つの未来があったとしたら」

「……何だよそれ……」
俺はつい、口をへの字にしてしまう。

それじゃあ、天界に還っても良かったかもって言ってるのと一緒じゃないか。

だが、

「………それでもね」
ウィニエルは歩みを止め、腕から手を離して、俺の前へと立ちはだかる。

「?」
俺は首を傾げてあいつを見つめた。

もうすぐ森を抜けるのか、薄暗い道が少し明るくなり、木漏れ日が木々の間を縫って俺達を照らす。
光があいつの顔に当たると、表情がはっきりと見える。

あいつの瞳がまた潤んでいた。

「……うっ……それでもっ、あなたのことを忘れたりは出来ないっ! もう一人の私は天界に還ってもきっと泣き暮らすっ! 後悔してっ後悔してっ……ひっ……そうしてっ、大天使様達に迷惑を掛け……」

「ウィニエル」

ウィニエルの瞳に涙が溢れて、俺はあいつの言葉を途中で遮るように手を引き、抱きしめる。
あいつは声を押し殺すように俺の胸で泣いた。

小さく嗚咽が聞こえる。

例え話に涙を流させるとは。
俺は何だってこいつを泣かしてばかりいるんだ?

情けねぇ……。

「ううっ……ぐりふぃ……ご、ごめんなさ……」

なのに、あいつは謝るし。

謝るのは、
俺の方……だろ?

”もし” なんて、
起こらなかった過去の話を持ち出して、大切な奴を混乱させるなんて愚の骨頂だ。


「謝んな。お前は何も悪くない」

「ううっ……っく……いいえっ……私が、もっとちゃんとあなたと……」

「わかったから」
俺はあいつの耳元で呟く。

「……何……?」
「お前の気持ちは、もう充分わかったから……、ごめん」

俺は腕に力を込め、より強くあいつを抱きしめた。

「……ううん……」
あいつは泣きながら首を横に振る。


「俺、お前のこと泣かせてばっかだな。 ……格好悪ぃ」
俺ははぁ、とため息混じりに告げた。

だが、あいつは……

「……どして……? いいのに……」
あいつは俺の背に腕を回してくる。

「え?」

「……私が泣くのは、あなたが好きだからだもの……。あなたはいくらでも私を泣かしていいんです」
「お前……」

あいつは俺を見上げながら微笑んでいた。
そして、続ける。

「私が勝手に泣いてるだけですから、格好悪いなんて思わないで下さい。グリフィンは格好いいもの」
言い終えると、俺の胸に頬を擦り付けた。

「あんま俺を甘やかすなって……」
俺はあいつの言葉がくすぐったくて、甘い香りのあいつの頭にキスをする。

ウィニエルは俺に甘い。

俺はいつもそれに胡床をかいてしまっている。

「え? 甘やかしてませんよ? 本当にそうなんですから」
あいつがまた俺を見上げて微笑む。

何の疑いも迷いもない笑顔だった。

それが、可愛くて可愛くて。

「……うるさい」
つい、ぽろっと出てしまう。

どれだけ甘やかせば済むんだよ、ウィニエル。
お前が甘やかすから、俺はお前を泣かすんだぜ?

「え? ……あむっ?」

俺はあいつの口を塞ぐように唇を重ねていた。
あいつからされた軽いキスなんかじゃなく、朝のように濃密に。
始めは「うう…」と息苦しさに時折呻いたが、嫌がる様子はなく、途中から甘い声を上げていた。

「ふぅ……んん……」
木漏れ日があいつの頬に当たる度、赤く染まっているのが良くわかった。

しばらく口付けを交わしてから唇を離し、俺は口を開く。

「……愛してる……」

俺の柄じゃねぇから、あんまり口にしたことはなかったが、今この場に相応しい言葉はそれしか思いつかなかった。


「……私も……、私もです……」


ウィニエルはまた涙を溢して、俺に抱きついた。


* * * * *


例えばの話だ。


もう一つの未来のウィニエルも、俺を愛してくれていた。

もう一つの未来の俺は、天界に還った天使をどんな気持ちで送ったんだろう。


身体が引き裂かれるような痛みにもがき苦しんだんだろうか。
どうしようもなかった運命を呪っただろうか。

それでも。


それでももう一人の俺は、ウィニエルを恨むことはなかったと思う。
嫌いにもなれず、ずっと未練たらしく想い続けて、いずれ歳を取って死んでいくんだろう。


夢の中であいつが俺を呼び止めた声が、まだ。

鮮明に残ってるから。


そう思う。


『グリフィン!』

ほら、まだ、はっきり。

耳に残って……

「グリフィン!」
「え?」

夢と同じ声に俺ははっとした。

俺達はあれから森を抜けて、家の近くまで戻ってきていた。
ウィニエルはすっかり元気を取り戻し、俺の前を走っていたが、刹那立ち止まってこちらに振り向く。

「作戦を練りましょう! 私も何かお手伝いしますから!」
「山賊退治か?」
「はい。私、もう天使じゃないから色々作戦を練らないと!」

ウィニエルは妙にはりきっていた。

「……そりゃ、いいけど…一緒に来るなよな」

もう天使じゃないんだから。

「わかってますよ! 足手纏いですもん。だから作戦を!! ね?」
「へいへい」

「じゃ、早く帰って作戦会議をしましょう!」

俺が返事をするとあいつは俺の手を取って走り出した。

「……天使だったら一緒に戦えるのに〜……」
走りながら悔しそうにあいつが呟く。

本当は少し後悔してんじゃねぇか?

「なぁ、ウィニエル。本当はちょっとだけ後悔してんだろ?」

「……グリフィン、ひつこいですよ……」
目を細めて俺を訝しげに見る。

う。

あいつの信頼度が少し下がったような気がする。


「もう……空を見上げてたのは天界が恋しいからじゃなくて、雲がおいしそうだったからなのに……」
ウィニエルは口を尖らせて話し始めた。

「は?」

「おいしそうなパンの形したのがあったんですよ。ずーっと流れていったから、ずーっと見てたんです。今日の夕食パンと何にしようかな……なんて思って」

あいつはそう言い終えると頬を膨らました。
同時、

「はぁ!?」
と、驚いた俺の声が漏れる。

「天界に還ろうなんて本当に思ったことありませんから! こんなに幸せなのにそんなこと思うわけないじゃないですか」
ウィニエルは満面の笑みを浮かべ、俺の腕を取って身を摺り寄せた。

「……そ、そうだよな」
あいつの笑顔に釣られて俺も笑う。

何だか今日のあいつはいつもよりスキンシップが多い……気がする。

いつもこうだったらいいのに。

「グリフィン? ……今日のグリフィン変ですよ? 朝何度も呼んでたのに起きてくれないし、私かなり大きな声を掛けたつもりつもりだったんですけど」

「え……?」


「夢の中の私が何を言ったかは知りませんけど、あなたを呼んだのは私なんですから」
ウィニエルはまた頬を膨らました。

「夢の中の私なんて、私じゃないもの。グリフィンに哀しい想いをさせるなんて私じゃないもの」
今度は顔を顰めている。


「夢の中の私なんか忘れて下さい。私は今、あなたの隣に居ます。この先も、ずっと」


夢の中の自分に怒りを覚えたのか、嫉妬しているのか、俺の目を真っ直ぐに見据えて告げた。


「……呼んだのはお前だったのか……」
俺は妙に納得していた。


グリフィン!!


通りで耳に残ってるはずだ。
呼んだのは今ここにいるウィニエルなのだから。



もう一つの未来のことなんか、どうでもいい。


ただ夢を見たことで、俺はウィニエルが地上に残ってくれて心底良かったと思っていた。
嫌な夢だったが、自分の幸せを再確認出来た気がする。


本当、良かった。


これからの未来をあいつと歩めるのは今の俺だけ―――。



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*後書き*

もう一つの未来があったなら…とかいうお話でした。
ウィニエルの言った未来、あながち有り得なくもない(笑)
その後贖いシリーズへと続くとか続かないとか?(笑)

グリフィン×ウィニエルは幸せいっぱいな感じがいいので、ラブラブ一直線です♪

お互いに色んなことに上手く折り合いを付けながら二人で歩んで行くことでしょう。
今回はその途中という感じ。設定的にはまだ二人は結婚してません。
恋人同士の方が何だかいいような気がして。

ラブラブで家に戻った二人をティアは複雑に迎えるんでしょうね〜(^^;
山賊はその後グリフィンさんが無事退治することでしょう。

しかし、今回甘すぎて書いてて恥ずかしかったヨ…。
一応全年齢用SSだからそうアダルトなことも書けないし。
キス止まりなのがモドカシイ!!(爆)

さて、
ウィニエルは本当に天界から降りたことを ”少し”、も後悔していないのでしょうかー?
私はグリフィンの問い掛けは何気に鋭いとこを突いてると思います。
後悔まで行かなくとも、かなりの不便さは感じているようだし。

でも、女はね〜、

好きな男のためなら何でも投げ出せたり、出来ちゃうものなのよ。
…的なことも書きたかったんですが長くなりすぎなのでカットカット!


今回のまい、ふぇいばりっとせりふ。

「うそつき」
「泣き虫」

でした。

長々と読んで下さってありがとうございました!